豊臣秀吉の朝鮮出兵の目的は、東南アジアの中心となり大規模な貿易国家を夢見ていたといます。朝鮮は通り道であった側面が強く、その後中国(明)との戦争を経て、東南アジアまで及ぶことを考えていたようです。
なぜそのような大規模な貿易国家を夢見ていたのかといいますと、当時は貿易が非常に儲かることであり、天下統一によって幕府が貿易を独占して、より安泰な国家体制を作ろうとしていたというのが、実利的な側面だと思います。
一方で、精神的な側面として、豊臣秀吉と同じ時期、スペインを中心としてイタリアの一部、ネーデルラント、ポルトガル、アフリカ大陸付近の諸島、南アメリカ大陸、そしてフィリピンなどの東南アジアの諸島までに貿易を広めて帝国ともいうべき大国になっていたフェリペ2世のスペイン帝国が念頭にあったのだと思います。
そして、西側ではスペイン、東側では日本という2大勢力として君臨しようと考えたのだと思います。
それまでに、フェリペ2世のスペインは大国であり、当時の世界の中心とまで言うような帝国でした。
しかし、そのような大国でありながら、実際はずっと財政難に悩まされていたようです。

今回は、フェリペ2世のスペイン帝国を国家戦略と経営状態を中心に論じながら、時代の空気を読んでいけたらな、と思っています。

目次
【1章・カール5世の借金】
【2章・フェリペ2世財源と戦略】
※2章は次のブログで投稿されています。

【1章・カール5世の借金】

フェリペ2世は1556年にスペイン王として即位しているのだが、神聖ローマ皇帝でもありスペイン王でもあった父カール5世から、オーストリアを除く広大な領土(アフリカ付近の島)や南アメリカ大陸、イタリアの一部、ネーデルラントなど)を受け継ぐとともに、膨大の借金も受け継ぐことになっています

では、そんなになぜ借金があったのでしょうか?

A.見込みで始まった大航海時代

それは、大航海時代によりヨーロッパを越えて、アフリカ・インド・南アメリカ・東南アジアにおよぶ広範囲な場所と貿易と統治を行う国家体制ができたものの、その広範囲の空間を国家が経営という視点で管理をするシステムが構築することができていなかったということが大きいと思います。

そもそも大航海時代はポルトガルがオスマントルコなどイスラム国家を通さず、東洋と貿易できるようにするために、地中海を中心とする貿易体制をやめて、アフリカ側から東回りでインドにたどり着くルートを模索したところに起因します。
当時食料を保存するなどに役立つ「胡椒」を始めとする香辛料が非常に高い値段で取引されていました。なぜ高い値段なのかというとニーズがあったということと、オスマントルコなどイスラム勢力を仲介して、ヨーロッパに輸入しなくてはならないため手数料がかかり、希少性が高まったためです。
つまり、原産地と直接取引をすることで利益を上げるために、大航海時代がはじまったともいえます。

ただ、逆に言うとそうすれば良いのにそうすることができない事情があったからこそ、今までそうしなかったため、そうすることができるようになった事情(①)、そうしようと思った事情(⓶)があったのです。

①そうすることができるようになった事情は、航海技術の発達です。具体的には以前より遠くまで公開できるようになったキャラバン船という縦と横の帆を搭載した船の誕生と、羅針盤の発見により進んでいる方角が分かるようになったことと、世界地図の精度がアップしてきたため地中海以外の航路も少しずつ分かりかけてきたということです。
そして、②そうしようと思った事情は、もちろんそうすることができるようになったということも大いに関係があるのですが、他には未知のキリスト教の国があって、連絡を取りたがっているという伝説のためです。
1200年頃から、アフリカ大陸のキリスト教の国から手紙が届き、未知のキリスト教の国がヨーロッパのキリスト教国家と連絡を取り合たがっているという伝説がヨーロッパで広がっていました。ヨーロッパはずっとオスマントルコを始めとするイスラム勢力にずっと押され気味であったため、もしアフリカ大陸(当時はイスラム勢力が蔓延っていた)にキリスト教の国があるとすれば、イスラム勢力を挟み込んで、有利に立てるという見込みがあったのです。
この伝説は、多くの航海者が影響を受けて、1400年代後半に喜望峰を越えて、インドまでたどり着いたヴァスコ・ダ・ガマもインドでどうしてわざわざ危険を犯してまでこの国に来たのか問われたとき、貿易の利益のためと、キリスト教国家を探すためと述べているほどです。

ここで重要なのが、貿易の利益のためは具体的な資産があったわけではなく(未知なので当然ですが)、おそらく利益を得られる貿易ができるに違いないという見通しによってなりっていたにすぎなかったのです。
確かに、ヴァスコ・ダ・ガマがインドにたどり着いたとき、はるかに安く香辛料が手に入ったのは事実でした。しかし、コロンブスが南アメリカ大陸にたどり着いたときは、思ったよりも収穫を得ることができませんでした。でも利益を得たいがためにでかけたため、南アメリカではコロンブスは略奪のような行為を行って無理やり利益を出したりしています。

つまり、大航海時代は見込みで始まり、確かに利益を得ることができた、という性質のものだったのです。

B.会計の把握に疎かったヨーロッパの国々

上記のように、大航海時代での見込みで始まったということは、別に何か始めるときにはついて回ることであり、ある意味では当然なのかもしれません。
問題なのは、実際に未知の世界に踏み出した貿易は、収支を把握して、利益がでているか把握していなかったということなのです。

実際、フェリペ2世はスペイン王になってから、本人は「書類王」という言われるほど、書類によるやり取りを徹底していたにもかかわらず、会計に関しては案外疎くさけていたため問題が生じて、帝国全体での収支が出ているのか、複式簿記を作らせ、把握させるシステムをつくる運動に奔走することになったりしています。

更に、これはフェリペ2世が特別であるというより、会計に疎いことは当時のヨーロッパの風潮でもありました。1400年代半ばくらいには貿易国家であったイタリアでは会計システムが発達し、会計に明るいことが当然のような風潮でした。しかし、ルネサンスによってギリシアの文化が入ってきたことと、キリスト教の考え方によって、当時の生き方のモデルともなる宮廷貴族の理想像が「お金にあざとくなってはならない」という風潮が芽生えたのです。キリスト教はもともと利益という考えに否定的で、利益を出し者は弱者を助けることが神への許しを得られるという考えでした。そして、ギリシアから入ってきた考えによって広まった「新プラトン主義」は、世俗的な技術より、より高尚な学問を尊重する傾向にありました(つまり、銭のカラクリは世俗的なことだったのです)。その両者の考え方が統合されて、さらに経済が発展し、宮廷生活をおくる貴族が増えてくると、宮廷貴族のモデルのような指南書が発刊され、世俗性をより嫌ったのでした。
こうして当時の宮廷生活でそだったフェリペ2世もまぎれもなく、会計に疎かったのです。

もちろん会計に疎い風潮といっても、一つの組織単位の貿易において収支は大体把握していたと思います。しかし、カール5世の神聖ローマ帝国は、ヨーロッパの貿易だけでなく、南アメリカなど範囲も広くなり、また戦争のスタイルが変わり(銃器の発達など)一回の戦争に使う金額が大きくなり、宗教騒動により戦争する機会も多くなり、支出も膨大な額となり、収入・支出ともに窓口も多くなり、金額も多くなり、負債なども多くなり、会計に明るくなくては到底把握できない状況だったのです。
そのため、フェリペ2世の父・カール5世といえども把握しきれず、結果的には負債の方が多くなってしまったのです。
つまり、利益を上げようと新たな大陸を開拓したものの、結果的には予想外の問題が続出し、把握しきれない範囲の経営となってしまい、結果的に負債を作ってしまったのです。
大航海時代を経た国家の姿は、こうだったのです。

【2章・フェリペ2世財源と戦略】

では、フェリペ2世はスペイン帝国の王に即位してから、どのように財政を解決および運用していこうと思ったのでしょうか?

その基本方針を決めたのは1548年のカール5世のフェリペ2世に対しての指針でした。
1548年、カール5世がまだ皇帝として現役だったころ、フェリペ2世が皇太子であったころ、カール5世はフェリペ2世が帝国の統治者となったときの指針を勅令によって示しました。
それによると、スペインからネーデルラントやオーストリアに通ずるジェノバなどイタリアの通り道は確保しつづけることは大切な条件だ、ということでした。

この勅令には
①なぜ領地の拡大よりも維持なのか?
②なぜネーデルラントやオーストリアに通ずる道が必要なのか?
という2つのポイントが重要になります。

①なぜ領地の拡大よりも維持なのか?

勅令が出た少し前の時代から、カール5世とフェリペ2世の家系ともいえるハプスブルク家による「世界征服の野望」を唱える考えが、ヨーロッパで噂されるようになりました。
実際、フェリペ2世も幼少時代の家庭教師に世界の王になるような教育を受けています。

しかし、のちにフェリペ2世が語っているように、基本的にはフェリペ2世は治世を通して領土拡大や世界征服を考えることよりも、カール5世から継承した領土の維持に重点を置きました。
そもそも、カール5世がスペイン王でありながら神聖ローマ皇帝を兼任し、オーストリアを中心とした帝国を運営していたのに対し、フェリペ2世は神聖ローマ皇帝を継がず、スペイン王のみを継いで、カール5世のオーストリアを除く広大な領土も受け継いだのです。これは、オーストリア中心統治から、スペイン中心統治への切り換えでもあったのです。

なぜスペイン中心統治に切り替えようとしたのでしょうか?

それは、スペインのあるイベリア半島の防衛こそが、イスラム勢力に反抗する気概の始まりであったからです(12世紀ルネサンスもイベリア半島をキリスト教勢力が取り返し、イスラム勢力が残していったギリシアの文化に触発されたのが起源。またスペインは1492年にイベリア半島から完全にイスラム勢力を追い出したレコンキスタ(国土回復運動)達成の年をもって大航海に時代の波に乗っている)。

この時代は、ヨーロッパの国々とって大事なことは勢いがあることでした。いくら領地を維持できて、財産を持っていたからと言って、弱腰な外交を行うと周りの国々に軽く扱われ、権威が失墜していく風潮にありました。フェリペ2世もこの勢いに常に気を配り、ネーデルランドの徹底的な屈服やイングランド征服など、本来なら大幅な赤字を出していたり、武力を失う結果になるリスクが高い行為を、権威を落とさないことを重要視して常に強気であろうとしています。

この勢いを考えると、ハプスブルク家の世界征服の野望も、勢いをつける格好の理想なのですが、フェリペ2世はこの野望を明言することはありませんでした。
むしろ、多くの戦争は自衛のためだと明言しているくらいです。
おそらく、広大な帝国の経営は、莫大な利益を得るも、莫大な支出をして莫大な負債を抱え、一つ手も車輪が狂うと崩壊してしまう、綱渡りのような危うさを気付いてのことだと思います。

そのため、現状の領土の維持を指針にして、対イスラム勢力の権化として勢いづけるためにスペインを中心とした統治を試みたのでしょう。

②なぜネーデルラントやオーストリアに通ずる道が必要なのか?

次に、現状の領土の維持に対して、ネーデルラントやオーストリアに通ずる道をあえて強調したのかという点ですが、それはこの道自身が利益を生み出し、またネーデルラントやオーストラアとつながりを持ち続けることが帝国によって莫大な利益となるからです。

ⅰイタリア
まず通り道としてのイタリアですが、イタリアはもともと貿易国家であり、スペインも1400年後半から積極的にかかわり、一部においては独占に近い状態でした。
特に、スペインから地中海を回ってイタリアに入る入口であるジェノバは、長距離の貿易の80%は独占していました。

また、フェリペ2世は神聖ローマ皇帝でないものの、「教皇の代理」でもあり、イタリア半島の北半分における皇帝の家臣に対する封土権を行使することができました。更に、領土紛争の酵素裁判官としての役を任じており、好みの者には有利に、そしてそうでない者には不利に調停していました。
このように、西ヨーロッパの権威の裏付けともなる教皇庁とのかかわりと、通商・政治ともに有利になる至りは実りのあるものでした。
1571年の時も、西ヨーロッパでプロテスタント勢力が拡充してゆく中、ヴェネツィア・教皇庁とスペインで神聖同盟を結び、連帯しています。

そして、なにより地中海方面からのネーデルラント・オーストリアに続く道として大切でした。のちに1588年のイギリスとの戦争においても、大西洋回りの隊と、イタリアの大陸方面からの進軍の合流が重要な役割をなしました。

ⅱネーデルラント
ネーデルラントは、国際貿易が盛んであり、非常に勤勉な国民性もあり、スペイン帝国の税収の40%を納めていました。
スペインの税収源の中で一番収入の多かったのです。

そして、金銭的な利益だけでなく、戦略上も3つの点から大切な場所でもありました。

まずネーデルラントは当時警戒していたフランスを威嚇する上で重要な場所でもあったのです。フランスとはスペインとは隣接国であり、プロテスタントの勢力の拡大がスペインにも影響を与えるため、非常に気になる国でありました。そのため、フランス内でプロテスタントの勢力が拡大してくるとき、カトリック側にスペインが介入して抑止したことがたたありました。アンリ3世やアンリ4世はプロテスタントであったにも関わらず、スペインの介入でプロテスタントの撲滅を誓わせられたり、勢力の容認を行わさせられたりしました。

次に、ネーデルラントないは勤勉な気質がプロテスタントの気質と合いプロテスタントの勢力が1500年代半ばから特に拡大してきて、もともとカトリックであるカール5世が統治していたため根付いていたカトリックと大きな紛争状態にありました。
このプロテスタントとカトリックの紛争は、近隣の国にとっても重要なことでもあり、それぞれの国がどちらかを支援していました。フランスもプロテスタント方面で大幅な支援を行っていました。
カトリックの勢力を巻き返すことを大きな命題としていたスペインもネーデルラントで大きな介入をしていたため、ネーデルラントでヨーロッパの列強の宗教紛争の模擬戦というか縮図のようなことが起こっていました。
つまり、ネーデルラントに周辺の国が手を焼いていれば、他に戦力を費やすことはかなり労力のいることで、スペイン本国が直接攻撃されるリスクを防ぐことができたのです。

そして、「①なぜ領地の拡大よりも維持なのか?」でも語ったように、「勢い」つけることにも重要だったのです。ヨーロッパの紛争状態の縮図が現れている状態の国で弱腰の対応を行えば、ヨーロッパ全体の国々に弱腰にみられ、勢いがなくなってしまう可能性があったのです。

そのため、かなりの長期間スペインはネーデルラントに手を焼いていますが、重要な地点だったのです。

ⅲオーストリア
オートリアはフェリペ2世とカール5世の家系であるハプスブルク家の人がカール5世に続き神聖ローマ皇帝を引き継いでいたためです。
フェリペ2世にとってもハプスブルク家の結束は重要なもので、イタリア方面からフランス・イギリス、そしてトルコ方面に抑止をかけるのに重要な地でした。

以上が、既存の領土を維持して、財源を確保と諸国の軍事的牽制を行うというスペインの国家戦略のベースでした。

他にも、南アメリカの銀山もカール5世から引き継いだ財源で、1588年のイギリスとの戦争も南アメリカから銀をスペインに輸送する船をイギリスの海賊に襲われているのを打破するということでもありました。

このようにフェリペ2世の国家戦略はカール5世から引き継いだ既存の領土を維持して、その防衛の名目で多くのヨーロッパ諸国やイスラム勢力と戦争を起こし、莫大の収入と莫大の支出、莫大な負債を繰り返し、会計システムの改善を行うもなかなか行えず、収支のバランスがいつしか決定的に見合わなくなり、衰退の方向に進んでいくという道を歩んでいきました。

 
※本稿は
①『戦略の形成』ウィリアムソン・マーレー他、中央公論新社、2007.11.10
上記の中掲載の論文『ハプスブルク家のスペインの戦略軽視絵―フェリペ2世による「支配への賭け」(1556~1598)』ジェフリー・パーカー(吉崎知典:訳)
②『帳簿の世界史』ジェイコブ・ソール、村井章子:訳、理想者、2015.4.10
③『ファミリー版 世界と日本の歴史 近代1:大航海の時代』大江一道、大月書店、1988.5.27
の3点を参照にして、流れを重視してまとめたものです。
 いずれの3書とも時代背景や国々の相互の関係など横断して細かく書かれている良書だと思います。細かい部分は、上記3書を参照していただけると大変嬉しいです。
※フェリペ2世など、時代によってまだその名前で呼ばれていなかったということはあるのですが、本稿では流れをつかむのが目的のため、一つの呼び名で統一しています。

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